共同親権の運動について、2年前に書いた、以下の雑文を書き直しました。
一枚岩ではなく、たくさんの岩の集まり。共同親権の実現を求める社会運動にふさわしい組織とは何か。
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共同親権の運動は「一枚岩がよい」という意見がある。
これについて私見をすこし書きます。
一枚岩の運動展開は不可能だと思っている。
なぜか。
社会運動の組織運営は、
一枚岩であることが求められる企業などの組織運営とは別だから。
人間は雇用契約などの関係がないと、他人の指示に従わない存在だ、と思う。
しかし、企業内部では、就業時間という限られた時間と、
就業する場所が決められており、その枠内だけの指示と服従の関係に留まっている。
だから雇用関係で組織はまわる。
しかし、社会運動は当事者が全人生をかけて問題解決のために動く、
そのために始められたものが多い。
そのような目的のために人間が動くには、企業のような一枚岩の組織は不適だ。
一枚岩の社会運動で、日本社会で成功した事例はほとんどない、と思っている。
日本社会で社会運動の組織運営として成功モデルは極めて少ないのではないか。
私が参考にしているのは障害者運動だ。
私見だが、障害者運動の特徴を以下に書いてみた。
①自分の身体にかかわることなので、思想転向しようがない。
障害者なのに、健常者と同じ身体を前提とした社会運動はできない。
②全国に多様な組織・運動があってバラバラに活動している。
数え切れないほどの障害者団体、ボランティア団体、社会福祉関係の法人がある。
③だから少数の人間による支配が不可能。
④その情報をまとめる専門家、全国ネットワークはある。
政治活動(新しい法律が必要だ。補助金が必要だ。という政治目的を達成するための活動)をするときに、この全国のつながりが力を発揮する。ここでは一時的に一枚岩であることが必要だとは思う。
⑤疲れたら休む。体力がないので。
一枚岩よりも、たくさんの岩。
一枚岩ではなく、たくさんの岩が、現実を動かす。
そういう観点でいうと、
共同親権をもとめる社会運動は、現在の100倍あってよい。
無数の人たちが、声をあげる。
組織(運動)をつくる。
組織(運動)と意見が違ってきたら、別れて独立する。
議論をする。
ひとりでも、やる。
それが民主主義だと考えている。
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補足。
ネットで岩について写真を拾ってみたけど、巨大な一枚岩は見つからなかった。
あったとしても、台風などの天災が発生したらすぐに折れてバラバラになるだろう。
一枚岩はあったとしても、小さい面積のものしかない。
全国の関係者・当事者をまとめる一枚岩の組織とは、形容矛盾だ。
古人は、一枚岩という日本語表現を、現実には存在しない、あってもすぐに壊れる、という意味合いで使っていたのかもしれない。
そう考えると、一枚岩の組織、という言葉で、社会運動や社会変革、という人間の営みを説明することはできない。
言葉の選択のミスか。